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    2020.12
    2020 Year End Special Blog 【コロナ禍で考えたこと Vol.1】 どんなとき、人は涙するのだろう?

2020年は予期せぬ事態が世界を襲い、私たちの日常を変えてしまいました。
そんな中、企業の再生や変革に携わりながら、さまざまなことを考えました。
私自身も2つの会社を経営する身として、かたちのうえでは人の上に立つ人間として、そして、ありふれた一人の生活者として、なんだか恐れ、迷い、考えた一年だったように思います。

年末のこのタイミングで、「コロナ禍で考えたこと」と題して、少し書き留めておきたいと思いました。お暇なときにお読みいただけると幸いです。

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2020 Year End Special Blog
【コロナ禍で考えたこと Vol.1】 どんなとき、人は涙するのだろう?

好きな場所がなくなる?

2020年、コロナ禍で世界は一変してしまった。
「今のニューヨークは、3週間後の東京だ」
そんな言説を当たり前のように耳にしていた頃、僕はいきつけのイタリア料理店を訪れていた。慌てて購入した額縁には、ついさっきKINKO’Sで印刷した感謝状が収まっていて、いつもと変わらない料理を味わいながら、僕は手渡すタイミングを計っていた。

本来ならその日、開店から10周年を迎える記念日で、店は常連客でいっぱいのはずだったけれど、緊急事態宣言が発出され、店には僕たち以外誰もいはしなかった。

ほんとかウソかしらないが、何かの本で、イタリア料理店を10年続けるのは奇跡的なことだと読んだことがある。その本では30年続けると伝説と呼ばれるらしかった。

食事を終え、感謝状を手渡すと、マスターは照れ笑いを浮かべながら、「めちゃめちゃ嬉しいです。こんなんしてもらったら、もうちょっと頑張らなあかんね」と言いながら、写真に納まってくれた。

マスターは俳優の竹野内豊に似ていて格好よく、少し不愛想な職人肌。
宣伝もしなければ、お客に媚びたりもしない。
声の大きい客が嫌いで、お客が話に夢中で料理になかなか手をつけない場面などがあると、露骨に不満げな顔をしたりする。
一度、カウンターに座った年配の女性客が料理を食べながらマスターに何度か話しかける場面に遭遇したことがあった。どうやらマスターはずっと無視をきめこんでいるようで全く反応しない。何皿か食べたあと、居心地が悪くなった女性客は帰ってしまった。マスターが皿を片付けながら、「何でもかんでも大袈裟に美味しい美味しいって言うて、わざとらしい。何しに来てんのや」と独り言のように言っていたのを聞いたこともある。

テレビの取材や雑誌の取材も好きではないらしく、頼まれて出たときも、そのことを必死で隠そうとする。

僕は、そんなマスターとこの店が結構好きだ。

指先でつまんで塩を振る仕草や、フライパンを動かしながらパスタをつくるフォルムが、鍛えあげられたアスリートみたいに美しいから。
数えられないくらい反復した動作だけが持つ、静かな美しさがあるから。

9月。
緊急事態宣言が終わっても、外食産業には厳しい時期が続いていた。
幸か不幸か、コロナ禍で経済が冷え込み、見通しが厳しい企業が増えると、変革や再生を生業とする僕らの仕事は増え、僕の足は少しずつ店から遠のいていた。

突然マスターから、LINEでメッセージが来た。
店を閉めることにした、と。
家賃をオーナーに半額以下にしてもらって、申し訳ない気持ちがあること
自転車操業で、毎日の仕入れに必要なお金にも困り始めていること
先行きが分からず、これから家族を養う目途が立たないこと

そのメッセージは「悲しい連絡でスミマセン」という言葉で締めくくられていた。

当事者ではないが、常連客としてカウンター越しに彼の心の内を聞く機会もあったから、いよいよそのときが来てしまったのか、と思った。

企業の変革や再生に携わっているから、終わることについて、よく考える。
事業も結婚も、きっと私たち人間にとって最も難しいのは、始め方ではなく、終わり方にある。


僕は深夜のATMに行き、現金100万円を下ろして店に向かった。

ビジネスで失敗する理由

ビジネスで失敗するとき、いったい何が起こっているのだろうか。
さまざまだろうが、こう考えることができる。
失敗確率が50%で、10回連続で失敗したと仮定すると、0.5の10乗であり、1024分の1。これは0.097%になる。
すると、ビジネスとは意外と失敗をしても死なない、という性質のものであるとわかる。要は、何度でもトライできる状況を作る、トライできる自分になる、ということが重要なわけだ。少なくとも理論的には。

けれど、僕らの周りには失敗が多い。それは、
1.トライの回数が少ないため、高確率での失敗が起こっているようにみえる
2.同じことを繰り返しているので、失敗の偏在が起こっている
のいずれかが考えられる。

そう、人は同じ失敗を繰り返すのだ。「これが自分のやり方だ」「これが私の流儀だ」「こういう時は、こうするものだ」そう言って、頑張って頑張って同じことを繰り返す。そして、そのうち、時間も資源も足りなくなっていく・・・。
コンサルティングの仕事をしていて、人間の滑稽さと業の深さを感じるのは、毎日のようにそういう場面に遭遇するからだ。

深夜、店について、カウンター越しに、マスターと話した。
マスターは落ち込んでいて、今にも泣きそうで、でも、料理はいつもと変わらず美味しかった。

ランチやってたらよかったのかなあ
もっと普段から営業しとかなアカンかったなあ
お客さんに、愛想悪いから、固定客が多くないからなあ

口から、後悔の言葉がポツポツ出てくる。コロナのせいだとははっきり言わないのがプライドのように感じられた。


後悔する?
そりゃあ、そうに決まっている。人生をかけてきた店を喪うわけだから、当然だ。

想いをもってつくった一枚板のカウンター。お気に入りのお皿たち。ティーカップも限定品が多く、棚に並べるだけで、壮観だ。そのカップでエスプレッソを飲むのが僕のお気に入りだ。


竹野内豊は、暗がりの店内で、か弱く、心細そうで、きっとたくさん、涙をながしたのだろう。


後悔。


企業の変革という現場で、なんども見てきたこの二文字は、いつも僕をなんとも言えない気持ちにさせる。僕はいつまでも、慣れることができない。

人が涙するときとは、どんな時だろうか?

いまには過去が折り畳まれている。
過去と縁のない今はない。私たちの現実の多くは、私たちが関与して作り上げたものだ。

そうであるにもかかわらず、私たちは、自分が関与し、当事者として作り上げた目の前の現実に涙する。自分が受け入れたくない現実が、自分によって作られたことを知っているからこそ、私たちにとって、その現実は一層厳しい。

未来を変える可能性を持つ、一瞬一瞬がたしかに確かにあったはず。
その一瞬を見過ごし、やり過ごし、見ないで生きた自分がいたはず。
どうして涙するのか。その一瞬を、間違いなく選択してきただけではないか。

取り返すのに途方もない時間がかかると気づいたとき、
もう見過ごしたり、やり過ごせない形で突き付けられた現実を前にしたとき、
人は唖然とし、そして涙する。


泣けばいいと思う。自業自得だ。
泣けばいいと思う。知っていたことだ。


狂ったように涙を流せばいいと思う。


そして、やり直せばいい。

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