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    2020.12
    2020 Year End Special Blog 【コロナ禍で考えたこと Final】 善良であること。

2020 Year End Special Blog
【コロナ禍で考えたこと Final】 善良であること。

学者が教えてくれた生き残る人

新会社を立ち上げてから、いろいろな専門家に会いに行っている。先日は、とある経営学者と東京であった。
話の流れで、今後どのような人が生き残るのか、という話になったとき、その人が「善い人でしょう」と言った。こんなロジックだ。
今すでに情報は溢れている。これからも情報は誰にでもアクセスできるものになっていくだろう。そのとき、本当に価値の高い情報はどこにいくのかというと、「善い人」に集まる、と。
情報はどんどんオープンになっていくが、情報とは「みんな知らない」ほど価値が高いものだ。情報がオープンになり、簡単に手に入らない情報が相対的に少なくなっていくにつれ、価値ある情報はより価値を持つ。そして、そのリッチな情報は、みんなに教えたくない情報なわけで、それを教えていいと思える人であることが重要になる、と。


なるほど。
善い人か。

いや、善い人ってなんだろう?

やる気の自家発電

昔、上司にこう言われたことがある。

「やる気の自家発電でお願いします」


モチベーションが上がらず、正直いつ辞めてやろうかと思いながらイヤイヤ働いている頃だった。言われて心底、頭にきたことを憶えている。

いやいや、あなた上司でしょ。やる気を失っているのはあなたのせいなんですけど。しっかり仕事して、僕のモチベーションを上げてくれ、少なくとも、僕のやる気を削ぐなよ。

そう思ったからだ。辞めたくなるような職場や会社にしているのはそっちだろう、と。


それからだいぶん月日が流れて、自分でチームを作って事業を始めたり、起業したりするようになって、やる気の自家発電って大事だなあ、と思うようになった。人間ができていないので、あの上司や会社のことを好きになったわけではないけれど。

「外側」に左右されると、世界は小さくなっていく

事業をつくったり、起業したりすると、あまりいいことがない(笑)
褒められることも少ないし、責任は大きい。プレッシャーもあるし、いわれなき批判にさらされることもある。

けれど、どんなに酷いことが起こっても、誰のせいにもできない。
誰かや何かが、モチベーションを上げてくれるわけでもない。
僕がつらくても、周りからしたら「好きでやってるんでしょ?」って話にすぎない。

すると、必然的に、やる気は自家発電となる。

自分の周囲の人や環境など「外側」が自分にとってナイスであるか否かに関わらず、「僕自身が、日々どうあるか」、が試されるのだ。


昔の僕は、上司がもっと自分のことを分かってくれたなら、職場がもっとよければ、人生がよくなるチャンスがくれば、

なんて、期待していて、でもそれが実現しないと、なんだかモチベーションが下がったり、拗ねたりしていたように思う。「なんでこうなんだよ・・・」と。

不平、不満をいっぱいに抱えていたように思う。

この10年近い時間、人の上に立って、気づいたことがある。
今も昔も働く場所が変わっても、メンバーや社員など関わる人の中に、そういう「外側」に左右される人間がいる。

思った仕事が割り当てられなくて、拗ねる人。嫌なことがあると、不機嫌な態度が出る人。気分で、仕事が雑くなったりする人。


気持ちはわからなくはないが、そんな人は、皆すべからく仕事で成功していなかった。

自分の「外側」が自分の思い通りになってくれない。
だから、落ち込んだり、傷ついたりして、拗ねたり、悪態をついたり、やる気がなさそうな態度になる。すると、周りは「あの人、なんだか機嫌悪そう」とか「あの人に仕事を頼むのをやめよう」となる。結果、その人は周囲から距離を取られてしまう。
すると、本人にとって、「外側」はより一層、自分にとって心地よい場所ではなくなっていくのだ。

「外側」が思い通りになってくれないから「不幸」になっているのだが、その「不幸なあなた」に、「外側」はナイスであろうとはしない。だって、面倒くさくて、気分屋の、はっきり言って嫌なヤツだからだ。


自分の生き方やあり方が、「外側」に左右される人の世界は、そうやっていつも、小さく小さくなっていく。

交換関係を超えて、生きてみる

上司が良いことをしてくれたら、自分もがんばるのに。お金をもっとくれれば、もっとちゃんとやるのに。もっとこうであったら、がんばれるのに。

「外側」がナイスであれば、自分もナイスになるのに、と僕たちが考えるとき、僕たちは交換関係の呪縛の中にいる。
「相手が、〇〇してくれたなら、□□する」
交換関係は、一見合理的だから僕らの頭や心を支配する方程式みたくなっているけれど、それは、ともすると僕らの世界を小さく小さくしていく、麻薬みたいなものだと思う。

それは、自分のあり方が「外側」に左右されている点で、依存した生き方と言えるだろう。

依存を超えて、自律して生きるには、「外側」に左右されるのではなく、どういう自分で在りたいか、を日々問うことが必要だ。環境や相手が自分に対してナイスであるかに関わらず、一人の人間として、どう在りたいかを問い始めるとき、人は交換関係を超え、自律への歩みを始める。

周りがナイスにしてくれなくても、自分は常に、在りたい自分の姿として、あること。
「外側」にあり方が左右されるのではなく、世界に自らを先に差し出すこと。


善良であるとは、自律した生き方の礎でもあるだろう。

Tweetされた言葉

Twitterで、こんなtweetをみた。
飲食店の店長がしたtweetだ。

『コロナで大変な中、お客さんが、コロナが終わったら前みたいに行くからね。それまで頑張って、と声をかけてくれる。今まで黙っていたけれど、本当のことを言おうと思う。今、お店に来て欲しい。もう十分頑張ってるんだ。これ以上何をすればいいんだ。』



tweetする方も勇気がいったと思う。

頑張れと励ますお客には悪意などなく、善意しかないのだけれど、僕はなんとも言えない気分になってしまった。相手を想像しきる圧倒的な共感みたいなものがなければ、善意が人の心を挫くことを指し示しているように思えたから。
頑張れと言われてやる気が出る時も、そう言われて挫けそうになることもあるのは、誰しも経験の中で身に覚えがあるのではないだろうか。

善くあることとは、本当に難しい。

一方で、心の内をツイートするこの店長に、僕はなぜだか善なるものを感じるような気がした。

『私は苦しいのだ。助けて欲しいのだ。あなたの言葉を、人知れず我慢してきたが、傷ついているのだ。それをわかって欲しいのだ。分かってくれるあなたであって欲しい』

そう願っているように思えたから。この心の叫びは、相手との関係性を諦めていない行為のような気がしたから。


この店長は、他者に期待している。お客が自分の思うように店に来てくれない、お客の「頑張ってね」という言葉や態度が、彼の心の襞に触れるものになっていないことに、腹立たしく、何より残念なのだ。お店に来てほしいと、自分の気持ちをわかって欲しい、と。

そこには、「期待」がある。


僕はついさっき、「外側」に左右されない自分のあり方が大切だと、そこに善良さの欠片があると書いた。

では、僕らは「外側」を諦めないといけないのだろうか。「外側」に期待することは、悪いことなんだろうか?



いや、きっとそうではない。期待することは、相手との関係性を諦めていない行為でもあるから。

その人との未来を想像するから、私たちは期待するのだ。裏切られることもあるけれど、それでもやっぱり、自分以外の他者との未来を想像することが、悪いことなんかではないはずだ。

ただ、その未来が、「自分の未来」ではなく、「その人との未来」であることが重要だと思う。愛すべき他者と共存する未来であり、全てが自分の想い通りにはいかない愛すべき未来であることを忘れてはいけないんだろう、と思う。


すると僕たちはどうすればいいのだろう?


『相手との未来に希望を持ち続け、その未来へ向けて、交換関係を超えて、ありたい自分であるかを問い続けること』


シンプルに言うと、そういうことだろうと思う。言葉にすると、その困難な奥行きがなくなってしまうけれど。

すれ違うことを恐れないで

善良さなんて大きなことは僕には分からない。

店長に頑張ってね、そのうち行くからね、と言った人は、店長に誤解されても、やっぱり店長のことを心配する自分でありたかったのだろうし、苦しくて、分かって欲しくて、お客に期待して裏切らた気がした店長は、その常連客との未来を、愛すべき他者と共にいる未来を、やっぱり諦め切れなかったから悲しかったのだと思う。


今この瞬間、交換関係を超えた善意は不意にすれ違うけれど、それは大したことではないはずだ。そんな二人が、いつかカウンターで向き合ったら、きっと素晴らしい空間になるはずなのだから。


(お客)「あの時は、店長のツイートみて、ちょっと不謹慎だったなって思っちゃったよ。ごめんね」

(店長)「いやあ、ほら、追い込まれちゃってたんで、つい呟いちゃったの。いつもお世話になってるのにね」

(お客)「いやいや、これからも来るからさ。門前払いせずに、お店に入れてね」

(店長)「もちろんですよ。本当に、ずっと贔屓にしてくれてるので感謝しかないんです」


向き合った二人が、そんな会話ができれば、互いに差し出したものが出会うまでに少し時間がかかっただけなのだから。


すれ違うことを、恐れてはいけない。絶対に。

善良であること

善良であることは、私たちの可能性をひらく、鍵だ。
まず自分から、他者へ、世界へ差し出すこと。交換関係に支配されるとき、僕たちの世界は、小さく小さくなっていく。

難しい問題を解くとか、別に複雑なことでなくていいのだ。
嫌なヤツに笑顔で挨拶したり、雰囲気の悪い職場で、自分から「いい天気ですね」と話しかけたり、クソみたいな上司のために、ひと手間かけた資料をつくったり、嫌なお客のことを、人知れず想ってみたり。

もちろん、僕たちの善意は、いつもすぐに受け取ってもらったり、伝わったり、報われたりしないことが多い。誤解されたり、無視されたりといったこともある。それどころか、想像力の欠如で、その善意が、人を挫くことさえあるかもしれない。


コロナ禍に見舞われた2020年。
世界の善意の総量はどのくらいだったのだろう?
そして、僕が差し出した善意は、どのくらいだったのだろう?


恐怖に怯え、不安になり、「与える」ことよりも「確保する」ことを、「共感する」よりも、「閉じこもる」ことを選んではいなかったろうか。あるいは、想像力の欠如した善意が人を挫くことを恐れて、差し出せる手をしまいはしなかっただろうか。

手を伸ばしてみよう。手が届く範囲で円を描いてみよう。
あなたを中心にして描かれた円は、あまりにも小さい。けれど、その円は、間違いなくあなたの手が届く範囲を教えてくれる。

嘘や偽り、悪意やちょっとしたスレ違い、漠然とした不安。私たちを足止めするものは多い。けれど、当たり前だけれど、その弧が思い出させてくれるのは、手に届く範囲が確かにあるということ。


そこからは、いつでも始められる。


「私たちは、大きなことはできません。小さなことを大きな愛を持って行うだけです」マザー・テレサは言っていたっけ。



では、愛ってなんだろうか。

大きな愛ってなんだろうか。


凡人の僕に、わかるわけなんてない。



「孤独な魂に出会うと、自由と知性のあふれる世界にかならず導いてあげる、それが愛」ヘレン・ケラー



愛のある人に、やっぱりなりたい。



<完>

あとがき

企業の変革や再生に携わる仕事がら、コロナ禍で、たくさんのことを考えました。これからも、まだまだ終わっていないので、考え、迷うのだと思います。

宛先のない手紙を書くみたいで、なんだか感傷的になってしまいましたが、2020年の大変な年の中で、このブログにお付き合い頂いた方々も、たくさん考えることがあったものと思います。落ち込んだり、怖くなったり、感謝したり、温もりが欲しくなったり、を繰り返したりして。


皆さんの手を半径として生まれる無数の円。そこから、きっともう、何かが始まっているのだと思うと少し幸せな気分がします。


最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。



前山匡右

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