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    2020.12
    2020 Year End Special Blog 【コロナ禍で考えたこと Vol.4】 託すこと。託されること。

2020 Year End Special Blog
【コロナ禍で考えたこと Vol.4】 託すこと。託されること。

親父のこと

父と息子とは、実に微妙なものだと思う。
親父への感情を言葉にするのは、母親のことを言葉にするより、なぜだかいつも難しい。引き出しの奥にしまっている古い答案用紙を引っ張りだすような、嫌な感じがある。

この夏、父が手術をすることになった。
父は肺に血栓が溜まる病気を永く患っていて、血中の酸素濃度が低く、普段は酸素ボンベを抱えながら生活している。71歳になる今年、大きな手術をする決意をしたのだった。

コロナがなければ、3月に予定されていたのだが、延期となり、6月に行うことになったのだ。
人工心肺を使いながら、低体温状態にする。体内の血流量を最小限にしながら、肺の中にびっしりと詰まって血流を止めている血栓を取り除く手術。術中に死亡するケースもあるような、大きな手術らしかった。

「手術をしても、治らないかもしれないし、命の危険もある。ましてやコロナ禍での手術なんて、院内感染したらどうするの?基礎疾患の最たるものなんやから、危ないでしょう?」

心配症の母親はそう反対したのだが、少しでも病状が軽くなるのなら、との父の想いから、最後は応援する側にまわっていた。

「手術しなければ、あと1~2年くらいしか元気ではいられないと思う。手術することで、あと5年、元気に生活したい。身体が楽になったら、自転車を買って、サイクリングするんや」

そう言って、親父が手術すると言ってきかないと、母親は僕に電話で笑って話した。


肺に疾患を抱えている父に会うことで、万が一コロナに感染させるようなことがあってはならないと、僕はずっと自宅に帰らず、3月からホテル住まいをしている。
だから、久しく父とは会っていない。


僕が大学生の時だった。
確か日曜日で、二階で僕と母親がそれぞれの部屋でまだ寝ていた朝。
母の友人から電話があり、すでに起きていた親父が電話を受け、二階で寝ている母親を起こしにきた。階段を上がったところで、寝ている母親の部屋のドアを開け、「〇〇さんから電話やぞ」と親父が母に呼びかけたときだった。
親父は階段の上で突然意識を失い、階下へまっすぐ落ちていった。

ドン。

鈍い音とともに、母親の狂ったような叫び声が聞こえた。
「パパ~!!!」
そのあとに、母は何度も何度も僕の名前を叫んでいた。


もう、20年前のことだ。

記憶というのは不思議なもので、きれいなシークエンスとして思い出せるわけではないのだけれど、いくつかの場面は、まるで切り取った写真のように今も鮮明に覚えている。

あのとき、僕が来ていた服が、クリーム色と紺色のボーダーのTシャツだったとか、119番通報したとき母が住所を言うと、「まず何があったか教えてもらえますか?」と聞こえてきた声があまりに冷静で、こちらの緊迫感とのギャップが大きくて驚いたこと、救急車に乗せられるとき、ご近所さんが集まっていて、知らないオッサンに「お父さん、どうしたんや?何があったんや?」としつこく聞かれて、「誰だ、コイツ??」と頭にきたこと。


20年。

僕の記憶は、映画にはならず、いくつかの鮮明なコマだけの、単なる断片になっている。記憶力には自信があるけれど、もう整理できない、瞬間の断片にすぎない。体験したことが、そうなってしまうくらい古い出来事だ。
そして、記憶が色褪せるのに十分なこの月日の間、親父はずっと苦しんできたことになる。

救急車で運ばれた先の病院で、医者が僕を呼んだ。

「大学生だね。なら、君がお父さんの話をしっかり聞きなさい。もう大人なんだから」

医者のその言葉に、とてもドキドキしたのを覚えている。
親父が死ぬかもしれない、とかそういうことが怖かったのではない。

「君が話をきく人間である」

そう「指名」されたことへの恐怖だった。

子供だと思っていた自分が、もう誰かに守ってもらう立場ではなく、突然、社会や世の中から「指名」されたことへの戸惑い。

母ではなく、僕こそが、話を正面から聞くべき人間である、と名指しされること。
それは、「お父さんの代わりに、家族全体のことを考え、決断し、行動するのは、他ならない君なんだ」、というメッセージで、なんだか容赦のない壁の前に突っ立っている気分がした。


病院で親父の病気が明らかになり、幸運なことに親父は酸素ボンベを抱えながらではあるけれど、日常生活に復帰することができ、会社も無事定年まで勤め上げることができた。

仕事場でも「わしは、バリバリやっていたんや」、と少なくとも本人は言っている(笑)

6月、手術の日の朝、LINEで母にメッセージを送った。
親父に伝言を伝えてほしい、と。
恥ずかしいけれど、こんなメッセージを送った。

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母上、
親父に宜しく伝えてください。以下、親父に伝言です↓


父上

病気になってもう長いですね。階段から落ちてからだから、私が大学生の時です。20年くらいでしょうか。
親父が救急車で運ばれて、そのあと私も病院に行ったんだったと思いますが、その時のことをまだなんとなく憶えています。確か先生から説明を受けました。
そのとき、先生にこう言われた記憶があります。

『もう大学生なんだから、君がしっかり話を聞きなさい』

突然の出来事で、記憶のいい私も混乱していたのか、やや曖昧ですが、先生がそんなことを確かに言ったのを憶えています。

『自分がしっかり聞かなければ…』と、その時確かに思ったかなあ。

大人として、あるいは長男としての覚悟と言ったら大袈裟ですが、そんな事を、まだまだ頼りない学生だった私は、人生で初めて思ったのでした。

そのあと、親父は回復し、病気を抱えながらも普通に働き、私は二留して大学生を6年もやらせてもらい、結局『覚悟』には程遠い子供のままの生活を送らせてもらいました。

あれから20年、きっと親父も辛かったでしょう。
息子は甘えに甘えて、今は会社の手伝いもしてもらっています(笑)
本当にありがとう。

今回、親父が手術すると聞いて、親父らしいなあ、と思いました。
母さんはとても心配していると思いますが、私は、親父らしいなと素直に思います。
色々悩んで決めたこと。人生一度だから、このチャレンジを選んだのだと思います。
手術が終わってから、人生のラストを謳歌してください。

20年経って、息子はオッサンになりました。
まだまだ親の脛を齧っていますが、今回の手術にあたって、1つ思ったことがあります。

それは、母さんのこと、やっちゃん(注:姉)や桃と奈々(注:ともに姪)のこと、ついでに山ちゃん(注:義理の兄)も加えて、まあ、万が一何かあっても、私がなんとかサポートしますので、安心して親父はこの病気にチャレンジしてください。

という点につきます。

20年、親父が頑張ってくれたので、あの頃よりは少しは『覚悟』と『自信』を育てることができました。二十歳のとき、鹿児島の田舎から一人出てきた親父に比べて、大人になるのがゆっくりで申し訳ないですが(笑)


コロナをもっていると嫌なので、顔を見るのはだいぶ先になると思いますが、親子ですので、またそのうち会いましょう。

会社の仕事、手術後のリハビリ用に溜めておきます(笑)

頑張って。


不肖の息子より

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引き受けることができず、戸惑った二十歳の頃。
人は自分から変わるのではなく、抱えきれないものを手渡され、それを引き受けることが必要なタイミングがやってくる。

人は「自分から変わる」だけではなく、何かを引き受けることで、変わるのかも知れない。それが、想いの通りであるか、そうでないかに関わらず。


一方でだから、抱えきれないものを手渡すことには、暴力性がある、ともいえる。
手渡された者は、手渡されたものの「大きさ」や「得体の知れなさ」に戸惑うこともある。容赦のない壁を前にしたような、あの感じだ。


でも、よく考えてみると、何かを託すこと、とりわけ抱えきれないものを託すことは、相手の変化の可能性を前提としている行為だともいえるだろう。


卒業式で校長先生が学生に送るメッセージは大抵、つまらない。
学生からすれば、無味乾燥な、あるいは紋切り型のささやかなお説教に聞こえる。けれどそれは、手渡し、引き受けるプロセスのスタートの合図なのかも知れない。

手渡されたものを、この贈る言葉の意味や価値を、了解できるような「君」。
そんな「君」に、まだ君は「為ってはいない」だろう。
しかし、今はまだ為ってはいない「君」に至る可能性が君にはあり、その可能性を開花せよ、そう言っているのかも知れない。

やがて、この意味が了解できる、そんな「君」になりなさい、と。



この文章を書きながら、父が吸い込む呼吸の回数を考えてみた。

多いか少ないか、十分か十分でないかは僕には分からない。でも、いつか父がしたくても出来なかった最後の呼吸が訪れる。そのとき、何かを託される僕になりたい。

そしてきっと、
託されるはずだ、とも思う。

私の可能性を信じることにかけて、両親の右に出る者はいないのだから。



親父へ
素晴らしい時間を生きてください。
それと、自転車に乗るときは、くれぐれも気をつけて。

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