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    2022.05
    2022 TSUISEE上市にあたって 【人事がマネジャーを殺すとき Vol.3】

2022 TSUISEE上市にあたって 【人事がマネジャーを殺すとき Vol.3】

■その哲学者は、電車で席に座らない

電車で席に座っていると、停車駅でお年寄りが乗ってくる。
このとき、「こちらの席、どうぞ」と言って、席を譲ることが出来たとすると、
それは道徳的で、きっと倫理的でもあり、好ましい振る舞いをしたと言うことになる。

これについては、大方、そのような見方になるのではないだろうか。


ところが、「水中の哲学者たち」という書籍の作者である永井玲衣さんは、
そもそも電車の中で、他人に声をかける勇気がない、のだと言う。


声をかけて断られたらどうしよう、とか、あるいは周りに「変に良い人ぶって」と思われたりしないかとか、いや、そもそも声をかけるタイミングが難しいとか、色々なことがよぎって、声をかけるのが、なんだか難しくなっていく。
別に自分が座りたいわけではなく、自分よりも席を必要としている人がいれば、「どうぞ、どうぞ」と譲ってあげたい気持ちは十分にあるのに・・・。

だから、彼女は電車に乗っている時に、席に座らなくなったという。
自分が立っていれば、いつか現れるかもしれない必要とする誰かが、その席に座れるからである。
彼女は、善意の贈り方として、そのような方法を選択したのだ。


ところが、
そのことを大学の授業で話した時、永井さんは先生から言われたそうだ。
そのような姿勢は、「他者とのコミュニケーションの拒絶よ!」と。


断られるかもしれないとか、話しかけた時に相手が不快な想いをしないかといった逡巡から、彼女は「席を譲る」のではなく、「席を空けておく」という方法を選択したわけだが、それは他者との関わりを避けようとする行為である、という指摘である。

確かに、そういう側面もあるな、と思う。


一方で、ドア横の手すりに身体を預けながら立っている彼女と、その傍で、誰も座らないで空いている席を想像してみる。

「誰かが座れますように」と一瞬願って、立ったまま身体を車体に預けて文庫本なんかを読み耽っている姿を想像するとき、果たして、彼女のこの選択はコミュニケーションの拒絶なんだろうか?との疑問が残った。


彼女は確かに誰にも話しかけないから、その意味で交流を生む行為はない。
一方で、「話しかけない」という選択は、やがてその席を必要とする誰かの到来をまっている行為でもあり、そこには小さな、誰にも知られない願いがある。


「どこかの誰かにとって、その席が役に立ちますように」


この願いは宛先も不明で、その席に座ることになった人は、その空席が、彼女の願いに支えられ存在していることすら気づかないけれど、彼女はそれでいいのだ。


人が他者と関わるとき、そこには多様な形態がある。
直接話しかける、メールを送る、あるいは、相手が気づかないような配慮をする。
僕らが職場で、あるいは家庭も含めたあらゆる場所で、人と関わるとき、
実に沢山の方法があるように思う。


親や上司になったりすると、このことをより一層痛感するようになるのではないだろうか。

僕は親にはなったことはないけれど、オッサンになって、上司になって、経営者になって、関わることの難しさと、関わり方の多様さを、少しずつ噛みしめている。


「これは失敗するなあ~」と分かっているけど、言わずに暫く待ってみる(これが結構辛い。笑)

全部言いたいけれど、分からないフリをして、会議で冗談ばっかり言ってみたりする。
部下が重大なプレゼンに挑んでいるとき、自分の仕事が手につかなくなって、携帯を握りしめ今か今かと連絡をまっている。

お客さんが創った新商品が店頭に並んでいるのをみると、買い物している見知らぬ人に声をかけて、「これ作った社員の人は、頑張り屋でねえ・・・」とか話しかけたりする(最初は気持ち悪いと思われるが、だいたいその商品を買ってくれる。)

休みの日に部下からメールが入ると、「オフィスで一人なのかなあ」と可哀そうになって、電話しようかどうか、思案して時間が過ぎる。



どれも、相手は知らないこと。
僕がそうなっていることを、相手は知らない。
教えようとも、伝えようとも思わないから、こんな逡巡は、僕しか知らない。

相手は知らないから、意味が無い逡巡かもしれないけれど、
僕はやっぱり、これは、この逡巡は僕にとっては大切で、これはきっと「関わり」の一つなんだろうと思うのだ。


今すぐには気づかれないだけで、豊かな「関わり」の一部なのだろうと思う。


すぐに伝わる「関わり」と、
すぐには伝わらない「関わり」。


言葉にする「関わり」と、電車の中の空席みたいな、祈りみたいな「関わり」。


そのどちらにも耳を傾けるとき、豊かな会社や組織、家族になっていくのではないだろうか。

■「向き合ってください」の罪

とあるクライアントの課長さんから、突然の電話。
相談したいことがあります、と言う。


聞けば、困った部下がいて、対応に苦慮しているとのこと。
仕事にやる気がないのか、どうにもミスも多い。
手取り足取り教えたり、営業に同行して指導しても、なしのつぶて。
心に何か話せない心配事でも抱えているのだろうかと会議室に呼んで話してみても、うんともすんとも言わないまま・・・。
同年代の部下と一緒に軽く食事に誘ってみても、「スミマセン・・・。予定があるので・・・」と取り付く島もない。

結果、周りにも迷惑がかかるので、人事部門に相談してみた。

すると、「マネジャーなんですから、その部下にしっかり向き合ってください。」との回答。

疲弊しているものの、自分の責任でもあり、その部下もまだ中堅社員にさしかかる一歩前の年齢で、仮に今の仕事内容が気にくわなくても、将来を考えると改善しておいた方がいいことも目に見えるわけで、放ってはおけない。
もっと話を聴かなくては、と想い、週に2回、面談をするようにしてみたそうだ。


その人は、そんな一連の話を、早口で僕に話してくれた。

日本のマネジャーは、頑張っているのだ。


ところが、そうであればわざわざ個人携帯から、僕に電話する必要はなかったようで、
話には続きがある。


毎週2回面談するも、やっぱり何にも変化がない。
会議室では、だんまりで、良くない空気がずっと漂う。
書店で求めたコーチングの本に書いている「部下を育てる良い質問例」を参考に、質問してみるものの、生返事ばかり。相手からくる返答は、いかにも普通で、そこに意思や本当の気持ちが無いのは明白だった。

責任感から、多忙な中でも面談時間を確保し、踏ん張ってみたが、ある時本人から「仕事が間に合ってないので、面談をパスさせて欲しい」と言われてしまった。
「おいおい。お前の為にやってるんだろうが・・・」と心の中で思って、正直いらだった。


困って人事に相談してみた。面談記録なんかも手元に持って。

すると、人事担当者から、こう言われたそうだ。
「もっと向き合ってください。部下を育てるのが管理職の責任なので。簡単に諦めるのは良くないです」と。

電話口で言う。

「もう十分やっている。これ以上どうしろって言うんでしょうか・・・。向き合うってなんですか?僕はそれが知りたいし、何をすれば少しでもよくなるのかを知りたいです。もうこれ以上は・・・。僕の精神が持ちません・・・。」




■あの人の想いが、風化する前に

僕は、電機メーカーの人事部門でキャリアを始めた。
その頃を振り返ってみると、「管理職の多くの人は、部下の面倒をあまりみない」とか、「業務を回すことを優先し、部下の育成などはあまりしない」、とかそんな風に思い込んでいた。
それは、僕だけでなく、当時所属していた人事部門のメンバーも基本的にそのように思っていたように思う。

どうしてそう思っていたのかは判然としないけれど、コンサルタントになって沢山の会社の人事部門をみても、あくまで僕の経験だが、こういう考えを持っている会社が多いように思う。

「現場マネジャーには、マネジメントをしっかりやっていない人が多い」

そんな良くない思い込みが、どうにもあるような気がするのだ。

管理部門というのは、現場の管理職に「お願い」することが多い。評価の実施や、目標の提出、勤怠管理やコンプライアンスなど、直接ビジネスに関わること以外のことをお願いするのが仕事になる。
ビジネスの推進で忙しい現場マネジャーにすると、そのような直接売上や利益につながらない仕事が、スケジュールに割り込んでいくので、おざなりになる人も多い。
書類の提出が遅れたり、いい加減なものを送ってきたり、人事部門から依頼された仕事をイヤそうな顔で受けたりする人も多くなる。


人事部門からみれば、そのような対応をするマネジャーの姿ばかりを強調されて見ることになるから、管理職の人に
「管理職なんだから、しっかりとマネジメントしろよ」とか、
「マネジャーの責任として、部下にしっかり向き合って、改善しろよ」
なんて、思うようになってしまうのではないだろうか。


かつての僕は、まさにそんな一人で、人事部門の依頼する仕事に対して、いい加減に対応してみえるマネジャーがいると、「あの人はマネジャーとしてどうかな・・・」なんて思いがちだった。

月日が経ち、自分で事業を起こし、経営なんてするようになると、マネジャーの大変さが分かるようになる。売上をつくったり、利益を実際に上げるのは、もっとずっと大変だ。
ノルマを達成しないと無責任と言われ、
部下が辞めれば、接し方に問題があったと言われ、
反論しようものなら、管理職としての自覚がないとか、
責任放棄なんて言われる始末で、だから、グッと言葉を飲み込んでいく。
そのうち、廊下を歩くときの顔がなんだか変わってきて、喫煙所でタバコなんか吸っているとき、重苦しいオーラを纏うようになる。

マネジャーになった日、誰しも想ったのだと想像する。

もっと良くしよう。
あの人みたいな上司になりたいな。
自分らしいチームをつくりたいな。
部下を育てて、彼・彼女らに幸せになってもらいたい。


どんな人でも僅かには持つそんな想いが、けして無くなったわけではないけれど、
心のずっと奥の方、何層ものカサブタの下に埋もれ、いつの間にか、置き去りにされてしまっていく・・・。


でも、マネジャーも頑張っているんだ。
部下を踏み台にする、エゴ丸出しの悪い人もいるけれど、
部下に頑張ってもらって、成長してもらえるから、部門やチームの仕事がもっとはかどることを知っている人の方が、圧倒的に多数なのだ。

忙しい中、不器用に悩み、ときどき、部下や自分自身に諦めそうになりながら、
それでも、また次の日には、「なんとかしなきゃな・・・」とリングに立つ。


経営や人事部門が、あるいは僕たちコンサルタントが、
不器用で、摩耗していく中、踏ん張っている人に、「もっと踏ん張れ。」としか言えないとしたら、それは寂しいことのように想う。





■「向き合ってください」に向き合うとき

そのマネジャーさんへ人事の人がしたアドバイス。
「部下と向き合ってください」
それを受けて、そのマネジャーさんは面談を一所懸命にしてみたのだ。

部下へ「関わる」というその行為は、確かに「関わり」ではあるけれど、それはマネジャーと部下を苦しめる非生産的な向かい合いになり、まるで無限ループのような関わりだ。

そのループはどれだけ進んでも振り出しに戻ってしまうだけで、部下もマネジャーも、ひたらすに消耗していく。こうなると、いっそ部下なんて放っておく、酷いマネジャーになった方がマシなのかもしれない。


「向き合ってください」よりも、具体的で実践的な「助け」になる言葉を、経営や人事部門は獲得する必要がある。

「××だから、今は●●しない方がいいと思いますよ」
とか、
「〇〇すると、△△だから、■■するのが良いですよ」

エビデンスに基づいて、マネジャーや部下の視界を拡げ、彼・彼女らの一歩を照らす言葉(=Solution)を、見つける必要があるのだ。


経営や人事部門が獲得したその言葉は、無限ループからマネジャーや部下を救い出す。
それは、奇跡みたいな大きなものではなく、ひとつの小さな洞察にすぎないのかもしれない。
でも、その言葉が、行き違うすれ違いの日々の中に、変化を起こせるのだとしたら、
その言葉には、魔法みたいな力があると言えるのではないだろうか。


電話を受けて、僕は踏ん張って働くあの課長さんから、
そんなことを気づかせてもらった。




■コンセプト誕生

人と人が「関わる」場としての会社。
祈りみたいな「関わり」も、無限ループみたいな僕らを疲弊させる「関わり」も、
すべて包含して存在する必要不可欠で、少し残酷な場所<会社>。

その場所<会社>を、
少し滑らかにするような、魔法みたいなツールが僕らは必要だと想った。


『日本の人事に、少しの魔法を』


奇跡なんて起こせないけど、小さな魔法を起こそう。
僕らの開発するアプリケーションには、そんな願いが込められています。


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